J.クリシュナムルティ

思考の開花がその終焉

一つの思考や感情を花開かせるためには、注意が必要です。集中ではなく。思考を花開かせるというのは、自分の考えや感情に何が生じているのか、何が起こりつつあるのかを見るために、それを自由にさせてやるという意味です。花開くものには全て、自由がなくて...
カンポン・トーンブンヌム

体の動きに入り込み過ぎず、思考に入り込み過ぎない

最初は注意深く観察していましたので、思考はあまり起こりませんでした。しかし体を長いこと観察すると、私の観察のペースを超えて思考がすばやく湧き起こります。一瞬でもうっかりしていると、思考にはまってしまうのでした。しかし、体に気づきがあるときに...
プラユキ・ナラテボー

今の幸福の因となった過去の一切は幸福のための因

気づきと洞察が培われてくると、因果の矢の向きが変わる。どういうことかと言えば、心の動きや状態にハマり込まずに客観的対象として心に対応できるようになり、それによって現実次元での事実は動かせなくても、心の次元での編集が可能になってくるわけだ。気...
カンポン・トーンブンヌム

自分の思考に、気づきを間に合わせる

思考というのは、起きてくるのがとても早いのです。どうか気づきを、間に合わせてください。自分の思考に、気づきを間に合わせる。皆さんは気づきが間に合っていますか?怒りが起こります。怒りに気づきが間に合っていないと人を責めます。あの人を責め、この...
プラユキ・ナラテボー

行動パターンを「止」めて、あるがままの現象を「観」てみる

仏教の瞑想は一般的にサマタ(止)とヴィパッサナー(観)とに分けられて、サマタが心をひとつの対象に繰り返し向けて安定させ、集中力(定)を養っていくこと。一方、ヴィパッサナーは瞬間瞬間に心身に起こっていることに繰り返し気づいて覚醒力(念)を養い...
ラリー・ローゼンバーグ

失敗したという感じを抱かずに戻ってくること

実際には、呼吸と共にあること、心がさ迷い出してしまうこと、さ迷ったことを知ること、穏やかに戻ってくること、そのすべてのプロセスが瞑想なのです。戻ってくるときに、自分を責めたり、裁いたり、失敗したという感じを抱かずに戻ってくることがとても大事...
ティク・ナット・ハン

自分の中の否定的な種

自らの妬みや非難や恐怖を認識した時点で、人はすでに受け入れへの確かな一歩を踏み出しています。ありのままの自分を受け入れてしまえば、もう自分を変えるために格闘する必要はなくなります。自分が自分に対して必要以上に厳しくなっていることを認識し、自...
カンポン・トーンブンヌム

苦しみを観ることはすなわち法を観ること

私の身に起こった苦しみは、修行という道に私を導いてくれる通行許可証のようなものでした。もし、私に苦しみが何も起こらなかったら、仏道に関わろうとはしなかったでしょう。苦しみがなければ、仏道など必要とすることはなかったでしょう。この苦しみから早...
ティク・ナット・ハン

心は三つの毒に侵されがち

私たちの心は三つの毒に侵されがちです。最初は渇望、次に憎しみや暴力、そして最後に妄想です。心を清めるとは、自分の中にあるこれらの毒を中和し、解消してやることなのです。三つの知恵。気づき、専念、悟りのエネルギーによって、毒を中和してやるのです...
OSHO

束縛などなかった

真に解放されるとき-------すべての正当さから、すべての誤りから解放され、すべての良きこと、すべての悪しきことから解放されるそのとき、あなたは束縛から解放されるだけでなく、解放それ自体から解放される。そのとき突然、あなたは笑い出す。何と...