現象の意味づけや価値判断は、人の心がかってにやるものです。「貴賤凡聖一如(きせんぼんせいいちにょ)」と言いますが、よい・悪い、尊い・賤しい、優れている・劣っている、と心の中身しだいでさまざまな意味づけがなされ、喜怒哀楽の世界が現れてきます。
テーラワーダ仏教では、すべてが一つだという考え方はしませんが、法としての存在は、ただあるがままで、相対的な判断世界を超越しています。
その法としての現象を、一瞬一瞬サティの対象として気づいていくのです。
ある立場から物事を見ていく、その見方をすべて取り払ってしまうのです。
心が変われば、いままで自分で自分の人生を苦しいものにしていたことがわかってくるでしょう。ドゥッカ(苦)を作り出す心のシステムから解放されてしまうのです。素晴らしいことになります。
(地橋秀雄「実践 ブッダの瞑想法」p111)