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ここにはほんとうは誰もいない

正面を向いているとき、身体の部分はほとんど見えません。頭の中にイメージ、自己イメージがあります。そのイメージには身体イメージも含まれていて、それによって自分がどこにいるかをとらえます。もしその頭の中のイメージが消えたら、ここにはほんとうは誰...
OSHO

主体と客体を見ている観照者

瞑想の本質的な核心、その真髄は、いかに観照するかを学ぶことにある。カラスが鳴く・・・あなたは聴いている。ここに二つのもの、主体と客体がある。だが、そこに両者を見ている観照者が見えないだろうか。カラス、聴く者、なおかつその両者を見守る誰かがい...
藤田一照

この宇宙でたった一回きり

いま自分の内外で実際に起きていることは、この宇宙でたった一回きりの未知の出来事です。すべての感覚機能を開放して、その無限の豊かさと出会い続けていくのが坐禅修行の内実なのです。(藤田一照「ブッダが教える愉快な生き方」第3章)
ティク・ナット・ハン

自分の中の否定的な種

自らの妬みや非難や恐怖を認識した時点で、人はすでに受け入れへの確かな一歩を踏み出しています。ありのままの自分を受け入れてしまえば、もう自分を変えるために格闘する必要はなくなります。自分が自分に対して必要以上に厳しくなっていることを認識し、自...
J.クリシュナムルティ

なにも選びとることなく、事実に気づいていればよい

信念は必要ありません。理想が必要でないのと同じように・・・それらはともに"あるがまま"の事実があきらかにされるのに必要なエネルギーをそらしてしまいます。信念は、理想と同じように事実から逃避することです。そのような逃避のなかで哀しみがなくなる...
箕輪顕量

馴染になった心の反応から脱却していく

私たちの心には、幼少期からの体験によって馴染になった反応が身についてしまっています。何かを認識すれば、心の反応が次から次へと起きることが常です。実際に、いま私たちが心の刺激を受けたときに、それを受け止めていることに気づく練習、すなわち観の練...
カンポン・トーンブンヌム

苦しみを観ることはすなわち法を観ること

私の身に起こった苦しみは、修行という道に私を導いてくれる通行許可証のようなものでした。もし、私に苦しみが何も起こらなかったら、仏道に関わろうとはしなかったでしょう。苦しみがなければ、仏道など必要とすることはなかったでしょう。この苦しみから早...
ティク・ナット・ハン

心は三つの毒に侵されがち

私たちの心は三つの毒に侵されがちです。最初は渇望、次に憎しみや暴力、そして最後に妄想です。心を清めるとは、自分の中にあるこれらの毒を中和し、解消してやることなのです。三つの知恵。気づき、専念、悟りのエネルギーによって、毒を中和してやるのです...
カンポン・トーンブンヌム

思考は本当の自分自身ではない

体への気づきの訓練を始めるとまもなく、突然思考はぱっと現れてくることでしょう。自分が意図しなくても思考は起こります。その思考に気づいたとき、それに関心を払わず、気にかけず、ただその思考を手放し、体の動きに戻るならば思考は自然と消え去っていき...
カンポン・トーンブンヌム

体と心の状態は、ただ単に、自然に起こっては消えていく

何度も何度も体と心の状態に気づくという作業を続けていると、気づきの力が増し、体と心のさまざまな状態を上から見守っている意識になってきます。つまり、ただありのままに観ることができるようになり、どんな心の状態が生じてもそれを問題としなくなってき...
ラリー・ローゼンバーグ

気を配ること

あること---それが何であっても---に気を配っていることは寛大さの実践になります。気を配ることによって、あなたはそれが自分の世界に入ってくることを許しているのであり、そのことによってあなたはそれに命を吹き込んでいるのです。しかし最大の受益...
J.クリシュナムルティ

思考によってつくられていない空間には他者は存在しない

思考がそのまわりにつくりだす空間には愛がありません。そのような空間は人と人をへだてるものになります。その空間のなかでひとは何物かになろうとし、人生の闘いがおこり、苦しみや恐れがうまれます。瞑想とは、このような空間がなくなることです。"わたし...