苦しみからの解放

カンポン・トーンブンヌム

苦しみを観ることはすなわち法を観ること

私の身に起こった苦しみは、修行という道に私を導いてくれる通行許可証のようなものでした。もし、私に苦しみが何も起こらなかったら、仏道に関わろうとはしなかったでしょう。苦しみがなければ、仏道など必要とすることはなかったでしょう。この苦しみから早...
カンポン・トーンブンヌム

体の動きに入り込み過ぎず、思考に入り込み過ぎない

最初は注意深く観察していましたので、思考はあまり起こりませんでした。しかし体を長いこと観察すると、私の観察のペースを超えて思考がすばやく湧き起こります。一瞬でもうっかりしていると、思考にはまってしまうのでした。しかし、体に気づきがあるときに...
J.クリシュナムルティ

思考によってつくられていない空間には他者は存在しない

思考がそのまわりにつくりだす空間には愛がありません。そのような空間は人と人をへだてるものになります。その空間のなかでひとは何物かになろうとし、人生の闘いがおこり、苦しみや恐れがうまれます。瞑想とは、このような空間がなくなることです。"わたし...
プラユキ・ナラテボー

イメージを描く数秒前には「傷」も痛みも苦しみもなかった

たとえば、私たちも「傷ついた!」などと、言ったり耳にしたりする。ちょっと冷静になって振り返ってみれば、そのイメージを描く数秒前には「傷」も痛みも苦しみもなかったはずだ。よく見てみれば「傷」というものはこの現実的な空間にはどこにもついてない。...
カンポン・トーンブンヌム

自分の思考に、気づきを間に合わせる

思考というのは、起きてくるのがとても早いのです。どうか気づきを、間に合わせてください。自分の思考に、気づきを間に合わせる。皆さんは気づきが間に合っていますか?怒りが起こります。怒りに気づきが間に合っていないと人を責めます。あの人を責め、この...
J.クリシュナムルティ

「何かになる」ことに伴う苦悶が止む

注意している状態は、どのようにしてもたらされるのでしょうか? そのような状態は説得や比較、褒美や罰などによって育成されるものではありません。こういったものは全て、一種の強制です。恐怖を除去することが注意の始まりです。何かでありたいとか、何か...
箕輪顕量

馴染になった心の反応から脱却していく

私たちの心には、幼少期からの体験によって馴染になった反応が身についてしまっています。何かを認識すれば、心の反応が次から次へと起きることが常です。実際に、いま私たちが心の刺激を受けたときに、それを受け止めていることに気づく練習、すなわち観の練...
地橋秀雄

事実に気づいていくと心から妄想が除外される

苦しみをなくす瞑想の一番のポイントは、「事実に気づくこと」なのです。では、なぜそれで苦しみがなくなるのでしょうか。それは、一瞬一瞬「事実に気づいていく」と、心から妄想が除外されるからなのです。仏教では、人生が苦しくなるのは、思い込みや先入観...
カンポン・トーンブンヌム

気づきのある人は、幸せである

「私は障害を持っていて苦しい」「私はきれいじゃないから苦しい」「私は太っていて苦しい」「私はもう年をとってしまった」。そんなふうに思って、自分を苦しめています。そのような思考が起こらなければ、苦しむことはありません。「今、ここ」に自分を取り...
箕輪顕量

私たちが悩み苦しみから逃れるための唯一の方法

私たちは感覚器官を通して世界を認識していますが、その認識がきっかけになって、次から次へと新しい心の動きを起こす、と初期仏教では捉えられました。次から次へと第二の矢が起きる、つまり心が働きを起こすことを、仏教では「戯論(けろん)」と言います。...