私たちは感覚器官を通して世界を認識していますが、その認識がきっかけになって、次から次へと新しい心の動きを起こす、と初期仏教では捉えられました。
次から次へと第二の矢が起きる、つまり心が働きを起こすことを、仏教では「戯論(けろん)」と言います。現代風に言えば、「心が勝手に拡張していく」となるでしょう。
とにかく、ブッダは、心の働きが、外界の認識をきっかけにして、次から次へと拡張していくことが、悩みや苦しみそのものであると捉えました。そのため、戯論を押さえることができれば、悩み、苦しみから解放されることになります。
もし仮に、戯論を押さえることができなくても、悩み苦しみが、私たちの心が作り出したものにすぎないと了解することができれば、それにとらわれることはなくなっていくことでしょう。ここにブッダは、悩み苦しみからの解放を見出したのだと考えられます。
つまり、戯論を抑えていくための「心身の観察」の方法が「念処」であったのだと思います。すなわち、私たちの感覚器官が捉えているもの、あるいは私たちの体の動きなどを、観察し、「注意を振り向けて、しっかりと把握し」続けていくことで、そこから先に心が勝手に動き出していかないようにしていたと考えられるのです。
そして、これこそが、ブッダが見出した、私たちが悩み苦しみから逃れるための、唯一の方法であったということになります。
(箕輪顕量「瞑想でたどる仏教」p18)