気づきとは何か

OSHO

自分自身と、それをしているということを忘れてはいけない

私の規律はとても簡単だ。私の規律はこうだ。あなたの好きなことは、何でもやりなさい。しかし、自分自身と、それをしているということを忘れてはいけない。歩いているとき、あなたは歩いているのだと、覚えておきなさい。それを言葉にする必要はない。という...
カンポン・トーンブンヌム

自分の思考に、気づきを間に合わせる

思考というのは、起きてくるのがとても早いのです。どうか気づきを、間に合わせてください。自分の思考に、気づきを間に合わせる。皆さんは気づきが間に合っていますか?怒りが起こります。怒りに気づきが間に合っていないと人を責めます。あの人を責め、この...
J.クリシュナムルティ

「何かになる」ことに伴う苦悶が止む

注意している状態は、どのようにしてもたらされるのでしょうか? そのような状態は説得や比較、褒美や罰などによって育成されるものではありません。こういったものは全て、一種の強制です。恐怖を除去することが注意の始まりです。何かでありたいとか、何か...
箕輪顕量

私たちが悩み苦しみから逃れるための唯一の方法

私たちは感覚器官を通して世界を認識していますが、その認識がきっかけになって、次から次へと新しい心の動きを起こす、と初期仏教では捉えられました。次から次へと第二の矢が起きる、つまり心が働きを起こすことを、仏教では「戯論(けろん)」と言います。...
J.クリシュナムルティ

事実に気づいていればよい

信念は必要ありません。理想が必要でないのと同じように・・・それらはともに"あるがまま"の事実があきらかにされるのに必要なエネルギーをそらしてしまいます。信念は、理想と同じように事実から逃避することです。そのような逃避のなかで哀しみがなくなる...
OSHO

実存全体はドラマのようなもの

この実存全体はドラマのようなものだ。そのドラマを演じなさい。そして、それに影響を受けないようにすることだ。ドラマの中にいて、遠く離れて超然としていなさい。しかし、そのドラマの中にいてはいけない。自分をただ目撃者、観客として考えなさい。それが...
箕輪顕量

馴染になった心の反応から脱却していく

私たちの心には、幼少期からの体験によって馴染になった反応が身についてしまっています。何かを認識すれば、心の反応が次から次へと起きることが常です。実際に、いま私たちが心の刺激を受けたときに、それを受け止めていることに気づく練習、すなわち観の練...
J.クリシュナムルティ

思考の開花がその終焉

一つの思考や感情を花開かせるためには、注意が必要です。集中ではなく。思考を花開かせるというのは、自分の考えや感情に何が生じているのか、何が起こりつつあるのかを見るために、それを自由にさせてやるという意味です。花開くものには全て、自由がなくて...
プラユキ・ナラテボー

イメージを描く数秒前には「傷」も痛みも苦しみもなかった

たとえば、私たちも「傷ついた!」などと、言ったり耳にしたりする。ちょっと冷静になって振り返ってみれば、そのイメージを描く数秒前には「傷」も痛みも苦しみもなかったはずだ。よく見てみれば「傷」というものはこの現実的な空間にはどこにもついてない。...
カンポン・トーンブンヌム

体と心の状態は、ただ単に、自然に起こっては消えていく

何度も何度も体と心の状態に気づくという作業を続けていると、気づきの力が増し、体と心のさまざまな状態を上から見守っている意識になってきます。つまり、ただありのままに観ることができるようになり、どんな心の状態が生じてもそれを問題としなくなってき...