カンポン・トーンブンヌム

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体と心の状態は、ただ単に、自然に起こっては消えていく

何度も何度も体と心の状態に気づくという作業を続けていると、気づきの力が増し、体と心のさまざまな状態を上から見守っている意識になってきます。つまり、ただありのままに観ることができるようになり、どんな心の状態が生じてもそれを問題としなくなってき...
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体の動きに入り込み過ぎず、思考に入り込み過ぎない

最初は注意深く観察していましたので、思考はあまり起こりませんでした。しかし体を長いこと観察すると、私の観察のペースを超えて思考がすばやく湧き起こります。一瞬でもうっかりしていると、思考にはまってしまうのでした。しかし、体に気づきがあるときに...
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どんな思考であれ、それは心を濁すもの

私は、体の動きを通して気づきを高め続けました。けれども、まだ思考が気づきと一緒にまとわりつき、波のように何度も絶え間なく打ち寄せては心を乱してくるのです。そのような思考の正体は、分析好きな思考として現れました。実際、動きを伴った体は具体的な...
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自分の思考に、気づきを間に合わせる

思考というのは、起きてくるのがとても早いのです。どうか気づきを、間に合わせてください。自分の思考に、気づきを間に合わせる。皆さんは気づきが間に合っていますか?怒りが起こります。怒りに気づきが間に合っていないと人を責めます。あの人を責め、この...
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初めは雑念ばかり

初めは雑念ばかりで気づきはほとんどありませんでした。喜びの感情が生じるときもありましたし、自分の体験していることを教科書と比べて考え込んでしまうこともありました。ときには苦しみから逃れようともがいて、さらに苦しむこともありました。これらはす...
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気づきのある人は、幸せである

「私は障害を持っていて苦しい」「私はきれいじゃないから苦しい」「私は太っていて苦しい」「私はもう年をとってしまった」。そんなふうに思って、自分を苦しめています。そのような思考が起こらなければ、苦しむことはありません。「今、ここ」に自分を取り...
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気にせず続けていく

瞑想の修行というのは、やればやった分だけ、その成果は実際すでに得られているのです。ただ、それは心に刻まれているものなので目には見えません。仕事のように成果が目に見える形ではっきりと現れてはこないのです。ですから、たとえ今わからなくても大丈夫...
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苦しみを観ることはすなわち法を観ること

私の身に起こった苦しみは、修行という道に私を導いてくれる通行許可証のようなものでした。もし、私に苦しみが何も起こらなかったら、仏道に関わろうとはしなかったでしょう。苦しみがなければ、仏道など必要とすることはなかったでしょう。この苦しみから早...
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いのちの時間を無駄に過ごすことにもなり得る

必要である限り、対話もしました。ただし重要と思われないことは話しません。私たちはさまざまな話によって心を乱されることがあるからです。五感の心地よさにも耽らないようにしました。たとえば、姿形や音、におい、味、皮膚感覚、考えごとなどです。という...
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思考は本当の自分自身ではない

体への気づきの訓練を始めるとまもなく、突然思考はぱっと現れてくることでしょう。自分が意図しなくても思考は起こります。その思考に気づいたとき、それに関心を払わず、気にかけず、ただその思考を手放し、体の動きに戻るならば思考は自然と消え去っていき...