私は、体の動きを通して気づきを高め続けました。けれども、まだ思考が気づきと一緒にまとわりつき、波のように何度も絶え間なく打ち寄せては心を乱してくるのです。そのような思考の正体は、分析好きな思考として現れました。
実際、動きを伴った体は具体的なものですが、気づきや思考、心は抽象的なものです。体の動きを観るように、まだはっきりと思考を観ることは私にはできませんでした。どんな思考であれ、それは心を濁すものでした。そこで私は思考を心から切り離し、純粋な心だけを選んでおきたいと思いました。
この修行を始めるに当たり、注意を右手にもっていき、手のひらを上にしたり、下に向けたりしました。体に気づいている間は、思考がまだ生じていない状態です。しかし思考が起こってきたと気づいたら、今度は左手に意識を向けます。思考がどんな内容のものであったとしてもそのようにします。よいものも、よくないものも、満足でも不満であったとしても、それらを観察して手放してやります。
(カンポン・トーンブンヌム「「気づきの瞑想」で得た苦しまない生き方」p99)