プラユキ・ナラテボー

プラユキ・ナラテボー

行動パターンを「止」めて、あるがままの現象を「観」てみる

仏教の瞑想は一般的にサマタ(止)とヴィパッサナー(観)とに分けられて、サマタが心をひとつの対象に繰り返し向けて安定させ、集中力(定)を養っていくこと。一方、ヴィパッサナーは瞬間瞬間に心身に起こっていることに繰り返し気づいて覚醒力(念)を養い...
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やはり型も必要

本当は型にこだわらずに、いつでもどこでもという感じで、瞑想モードを生活のそこかしこに落とし込むことは可能なのですが、やはり私たちはこれまでに何度となく繰り返してきた覚醒なしの言動や生活習慣がしっかりと身についていますから、型を抜きにして、い...
プラユキ・ナラテボー

イメージを描く数秒前には「傷」も痛みも苦しみもなかった

たとえば、私たちも「傷ついた!」などと、言ったり耳にしたりする。ちょっと冷静になって振り返ってみれば、そのイメージを描く数秒前には「傷」も痛みも苦しみもなかったはずだ。よく見てみれば「傷」というものはこの現実的な空間にはどこにもついてない。...
プラユキ・ナラテボー

今の幸福の因となった過去の一切は幸福のための因

気づきと洞察が培われてくると、因果の矢の向きが変わる。どういうことかと言えば、心の動きや状態にハマり込まずに客観的対象として心に対応できるようになり、それによって現実次元での事実は動かせなくても、心の次元での編集が可能になってくるわけだ。気...