仏教の瞑想は一般的にサマタ(止)とヴィパッサナー(観)とに分けられて、サマタが心をひとつの対象に繰り返し向けて安定させ、集中力(定)を養っていくこと。一方、ヴィパッサナーは瞬間瞬間に心身に起こっていることに繰り返し気づいて覚醒力(念)を養い、ありのままに見つめることを繰り返しながら、洞察力(慧)を養っていくことと理解されています。
もちろんこういった伝統的な解釈もいいのですが、私の実感から言うと、こんな感じの説明もできるんじゃないかなと思います。すなわち、サマタ・ヴィパッサナーを、いったん世間的な常識やモノの見方、通常の認識、思考回路、行動パターンを「止」めて、あるがままの現象を「観」てみる、と。
他の言葉で表せば、自己の生きる世界の自明性(世俗諦)を一旦解体し、実相世界(真実諦)と自世界(自我世界)の存立構造を理解していく。すなわち、智慧を得ていくことですね。瞑想を、そういったことを実現化するツールとみなしてもいいのではないかと思います。
(プラユキ・ナラテボー「自由に生きる」p260)