現在に何も足そうともせず引こうともしないこと

藤田一照

結果を得ようとする瞑想や苦行から、ありのままを受け入れる樹下の打坐へのシフトを、今ここの自分の身心で行うのが坐禅です。

道元はそのことを「坐禅は習禅には非(あら)ず。唯(ただ)是(こ)れ安楽の法門なり」(『道元禅師語録』大久保道舟訳註 岩波文庫)と言っています。

小手先の瞑想技術に習熟することによって特定の心境に到達しようという「習禅」と「坐禅」とをはっきり区別しているのです。

坐禅で大切なことは、そういう人間の作為的努力を手放して、心身を自(おの)ずからなる働きに任せて調和させ、現在に何も足そうともせず引こうともしないことです。

おおらかにのびのびと坐ることで、安楽(身は安らかで、心は悦ばしいこと)の世界へと入っていけると言うのです。

(藤田一照「ブッダが教える愉快な生き方」第3章)