「何かになる」ことに伴う苦悶が止む

J.クリシュナムルティ

注意している状態は、どのようにしてもたらされるのでしょうか? そのような状態は説得や比較、褒美や罰などによって育成されるものではありません。こういったものは全て、一種の強制です。

恐怖を除去することが注意の始まりです。何かでありたいとか、何かになりたいという衝動、すなわち、ありとあらゆる欲求不満とねじれた矛盾を伴う、成功への追求がある限り、恐怖は必ず存在します。

集中は教えることができますが、注意は教えることができません。ちょうど恐怖からの自由を教えることがおそらく不可能であるのと同じです。

しかしこのような原因を理解するにつれて、恐怖が除かれていきます。生徒が幸福安寧な雰囲気に包まれたり、安心感を持ち、リラックスを感じ、愛とともに起こる私心のない行為に目覚めていたりすると、注意は自然発生的に起こります。

愛は比較しません。そうすると、羨望と「何かになる」ことに伴う苦悶が止むのです。

(J.クリシュナムルティ「四季の瞑想」p172)