自我(エゴ)は決して自分に寛げない

OSHO

人は、自分の自我(エゴ)に応じて、好きだったり、嫌いだったりする。エゴがなければ、どこに、好きだの嫌いだのがあるだろう。そんなものはただ消えてしまう。

自分自身に寛(くつろ)いでいれば、好きだの嫌いだの、常に選択肢を創り出す分割思考(マインド)を決して持つことはない。

が、自我(エゴ)は決して自分に寛げない。絶えざる騒動の種だ。何しろ、エゴはまわり中を気にしなければならず、そこには、何百万人という人がいるからだ。

誰かが大きな車を買った。さあ、どうする。誰かがどこかで、もっときれいな奥さんを見つけてきた。さあ、どうする。誰かは自分より健康だ。さあ、どうする。誰かが、自分よりきれいな目をしている。さあ、どうする。誰かは、もっと知的だ。もっとずる賢い。もっと金持ちだ。

というわけで、まわりには無数の人間がいるのに、その誰とも競争している。人は気が違ってしまう。こんなことは不可能だ。決して、満足を感じるような瞬間に到達することはできない。

(OSHO「信心銘」p304)