苦しみを観ることはすなわち法を観ること

カンポン・トーンブンヌム

私の身に起こった苦しみは、修行という道に私を導いてくれる通行許可証のようなものでした。

もし、私に苦しみが何も起こらなかったら、仏道に関わろうとはしなかったでしょう。苦しみがなければ、仏道など必要とすることはなかったでしょう。

この苦しみから早く解放されたいという思いが、仏道修行に対する強い熱意を生じさせてくれました。

また、苦しみは瞑想において重要な観察の対象となります。これも苦しみのメリットとみなせましょう。すなわち、気づきを高める修行をしているときに、体や心の苦しみが生じてきたら、その苦しみの状態を見つめ、学びの機会としてしまうのです。

苦しみの種類やその働きはどのようなものだろう。そしてそれらはどこに生じているのだろう。苦しんでいる者とは、じつのところ一体誰なのだろう。ということを見極めていくのです。

もし苦しみに入り込んで苦しむ者になってしまったら、試験にはまだ不合格です。苦しみを観ることはすなわち法を観ることであり、法を観ることはすなわち苦しみを観ることに他なりません。

(カンポン・トーンブンヌム「「気づきの瞑想」で得た苦しまない生き方」p131)